ラングは我々と外界との自由な関係を疎外する

デジカメで写真を撮る、と想像してほしい。解像度が低かったらただのモザイク写真になってしまうし、高かったら精密な写真を撮ることができる。また同じサイズの写真を並べるなら、解像度が高い方が精密だし、画素数も多い。
デジタル写真は画素の集まりで出来ている。画素というのは色の付いた小さな小さな点だ。その点がたくさんたくさん、いろんな色が集まって、全体を見るとあら不思議、風景なり人物なりが浮かび上がってくる。これがデジタル写真。デジタル写真に限らず一般的な印刷物はだいたいこのシステムで印刷されてるはず。新聞の白黒写真もそうだし雑誌でもそうだし。例外は版画か。
とすると、いくら解像度が高くて画素数も多い写真も、コマンドと+を押して拡大してしまえば色の点の集合体、モザイクになってしまう。新聞の写真もルーペで見ればただの点の集まりだってすぐ分かる。点と点の「あいだ」にはなにもない。デジタル写真だといろんな色のタイルを敷き詰めたような感じ。まあモザイクだね。この「あいだ」をなめらかな表現にするには、さらに解像度を高くして画素を増やさなければならない。するとそれもやっぱり点の集合だし、タイルをたくさん敷き詰めたもの。これではきりがない。


さて、デジカメというのはラングを例えたものだ。写真を撮る行為はラングによって表現することの例え、画素とか点とかタイルとか言ってるのは語彙の例え。
もうひとつ例え。目の前に猫がいるとして、その猫を説明するのに「もふもふした動物です」としか言わなかったらそれは画素数の少ない写真だ。猫を全く知らない人に(ややこしくなるから日本語[コード]は通じるとして)猫のことを説明しようとしてもこれではあまりに不十分だ。だからといって「もふもふしてて耳があってニャーと鳴いて爪が鋭いネコ目ネコ科の小型の動物です、あ、ほ乳類です」とことばを延々並び立てても一緒だ。ただのモザイク。


要するに「ラングは我々と外界との自由な関係を疎外する」っていうのは、自由にありのまま感じたことをラングのマス目で表現しようとすると、曖昧な部分が消えてしまって全体像が分かりにくくなってしまう、なんてところだろう。コミュニケーションにはラングが必要だけれど、ラングのせいでメッセージがぶつ切れになっていたり削ぎ落とされていたり切り刻まれていたりするのだね。曖昧なラングというのは存在しない。曖昧だと感じるのなら、それはただ解像度が低いだけ。


ここまで書いて思ったのだけれど、問題文の「疎外」というのは「阻害」の間違いなんじゃないだろうか。どこかの文献からの引用っぽいから間違いではなさそうだけど、それなら「ラングは我々から外界との自由な関係を疎外する」の方が文法的に正しそうだよね。